天動説と地動説


 「わしゃ ずっと天動説や。天動説でちっとも困らん。」
 「こっちがじっとっしてるにに、朝になっておてんとうさまが出てくる。
 むこうが勝手に動いてるのやによってな。」

  昭和の怪僧と呼ばれた薬師寺管主の橋本凝胤が徳川無声との対談で述べたもの。
 多くの人は地動説だという意見に対しては
「そう教えられたからそれに違いないと思って、、」 
 と反論している。

 太陽が朝出てきて夕方に沈むというのは実感であろうから、「実感を大切にすれば天動説になる」というのも説得力がある。

 人類が誕生してから何十万年もの間大分部分の人は天動説であり、それで困ることはなかったのだから、「天動説でちっとも困らん」という人がいても不思議はない。
 
 地動説を信じている人は「そう教えられたから、それにちがいないと思って」いると言われれば、ほとんどの人は明確な反論はできないであろう。
 多くの人は信じているからといっても理解しているとは限らない。
 
 ところで、一日に昼と夜が交替することから
 天動説を信じている人は太陽が地球の周りを廻っていると考えている、つまり一日で公転していると考えていることになるが、地動説は一日で地球が太陽の周りを廻るとはしていない。
 地動説は地球が一日で自転し、一年365日かけ太陽の周りを廻って公転していると考える。つまり地動説は昼と夜の交替は地球の自転によると考えている。

 太陽が地球の周りを廻らなくても、地球が自転すれば「朝に太陽が東から昇り、夕方西に沈む」と実感できるのである。
 天動説では、地球と太陽の位置関係が逆になるから、太陽が1日でつまり地球の自転速度の365倍のスピードで地球の周りを廻るということになるので、逆に素直に受け入れにくいのではないか(太陽が365日で地球の周りを廻っても、地球が1日で1回自転すれば1日で昼夜が交代するが、これでは別種の地動説になってしまう)。
 それでも地球自体が動いているということは容易に信じられないから、天動説に与するかもしれない。

 電車に乗っているとき、ホームの反対側の列車が動き出した、と思ったら反対側の列車とホームの柱が一緒に動いているので、動き出したのは自分が乗っている電車だと気が付いた。 
 というような経験があるのではないだろうか。
 
 新幹線やジェット旅客機に乗っているとき,定速状態の時は高速で動いているのに、静止しているように感じる。
 自分が動いているのに、周囲が動いているように感じ場合があるのである。

 
 月夜の晩に上空の月を見ながら歩いていると月が歩行に合わせて移動しているように見える。
 立ち止まった状態で月を見ると月は停止して見えるが、月までの距離が非常に大きいため月を見ながら歩いても視線が動かないので、月が歩行に連れて移動しているように感じる。
 実感として月が歩行の方向に動いているように感じる。

 「三笠の山にいでし月かも」、「雲隠れし夜半の月かな」などというのも実感に違いないが、月は三笠の山からも、雲からも測りしれぬほど離れているので、事実ではない。
 月までの距離は見る目から三笠の山や雲までの距離の何万倍も離れているので、実感は事実を反映していない。
 三笠の山に向かって歩けば、三笠の山はだんだん大きく見えるようになるが月はそのままの大きさで、三笠の山に隠れてしまう。
 実感というのは実際にそのように感じたということで、事実が実感のとおりであるとは限らないのである。