ファクトフルネスの啓蒙 (1)


 「お父さん 目覚めてください!」
 「目覚めてますよ わたしゃ! なに言ってんだ
 もう!」
 大人しかった息子が、宗教とか啓蒙思想に触れたりすると、世界というものを理解できたと感じ、一種の高揚感を持って親に説教まですることが有りました。
 幼児期は家の者が何でも言うことを聞いてくれたので持っていた幼児期の万能感は、学校に行くようになれば、他人は思いどうりにならないので失われてしまいます。
 宗教とか啓蒙思想に触れて、万能感がよみがえり、他人を説得したい衝動が生まれたりするのです。

 ハンスロスリングの「ファクトフルネス」という本が娯楽本ではないのに、出版社発表で百万部を越える大ベストセラーとなっています。
 ロスリングによれば世界の重要問題について、学者やジャーナリストなど大部分の知識人までが間違った判断をしているが、この本を読めば誰でも正しい判断ができるようになると言ってます。
 ノーベル賞受賞者を含む一流の知識人、経営者などでも判断を誤る問題について正しく判断できるようになるというので、自己啓発本として魅力が強烈だったようです。
 この本を読めば容易に知的なパワーが獲得できるように感じさせるからでしょうか。
 
 ロスリングは世界について13の問題を提起し、それぞれ3種の回答の中から正解を選ばせています。 
 3択問題ですからでたらめに回答しても3分の1の確率で正解できるはずなのに、知識人などは20%程度の場合もある、つまりチンパンジーに回答を選ばせるより成績が悪いという結果だと言います。
 なんでそんなことが起きるかと考えると、知識人などが記憶しているデータが古いので誤答が多くなってしまうのかとロスリングは最初は考えたそうです。
 データというのは現実が変化すればそれに応じて変化すべきものですが、世界のあらゆることについて変化をその都度記憶し直すことは個々の人にはできません。
 人間はいろんな事柄について新旧取り混ぜた知識をもって生活しています。
 つまり知識をもとに判断すると正しい判断ができないこともあります。
 ところがロスリングが新しい事実を示しても誤った解答をする人が多かったそうです。
 そこでロスリングが考えついたのが、人間の本能が客観的事実を受け入れないため、事実に反する答えを選択してしまう理由だというアイデアです。
 ロスリングの挙げた本能の筆頭が「何でも二つに分割される」ギャップインスティンクト(二分割本能)だとしています。
 たとえば世界を貧困と富裕に分けてしまうという例。
 しかし、かつて日本で自分が経済的にどの階層に属するかというアンケートでほとんどの人が中流に属すると答え一億総中流などと話題になったことがあります。
 自分は貧困でも富裕でもないと考える人が大部分だったのです。
 時代がずれても中間層が多数を占めるのは間違いないでしょう。
 世の中が貧困層と富裕層に二分されると考える人は少ないのではないか。
 全てのことについて二分化するというのは事実ではなく三分化も四分化もものによって有ります。
 政治的には右翼、左翼だけでなく中道があり、山には頂上、中腹、すそ野、川には上流、中流下流があります。
 時間は過去、現在、未来、と思いつくだけでも二分化ではないものがいくつもあります。
 なんでも二分化してしまうのが人間の本能だとは言えないのではないか。
 日本人は本能を失っているということになるのでしょうか。
 ロスリングは世界は貧富に二分化してはイナイという立場ですが、それを立証するのに、なぜか多産多子の社会が貧困社会、少産少子が富裕社会を示すとして
グラフ化しています。
 かつては人類のほとんどが貧しく多産多死であったが、先進国がまず経済発展して少産少死化しており、その後、現在ではほとんどの国が少産少死化していて、その度合いが切れ目ないので、世界は全体的に改善されていると主張しています。
 
 ところで、少産少死や多産多死が豊かさの指標だというのは、歴史的には正しくありません。
 どの時代でも貧乏であったり低い身分の者は、家庭を持てなかったり少ない子供しか持てない傾向があり、権力者や富裕者が多くの子供を持ったものです。
 正妻の子が少なくても一夫多妻だったり、婚外子を持ったりしていましたから富裕層が少産であったということはなく、多産が一般的でした。
 大家族というのが後進的と思われたことがありますが、大家族が成り立つのは経済的基盤があってのことで、かつては大家族は地主、小作人は少家族が普通でした。
 貧乏人の子沢山というのは、貧乏人が子供をたくさん作るというのではなく、貧乏なのに子供をたくさん産んでしまうと悲劇になるということです。

 イギリスのマルサスが「人口論」で救貧院に反対していたのは、貧乏人で子供を養えない者に経済援助をすれば、子供を持つことを可能にしてしまう。
 そうすると社会の食料生産量を越える人口をもたらすからだとしています。
 富裕者は子供を多く持てるが、貧者は政府の援助がなければ子供を多く持てないと考えていたのです。

 産業革命後ヨーロッパの人口は増えましたが、特に増加率の高かったのがイギリスで、急増する人口によって世界中に植民地を築いています。
 増加する人口のはけ口が植民地だったわけですが、人口増加が先進国の地位獲得の要因でもありました。
 少産少死が先進国の証しというのはいつもどこでも言えることではないのです。


 産業革命後のヨーロッパ諸国は人口が増加し、また植民地を獲得し、収奪することで著しく経済発展を遂げていますから、少産少死と多産多死で先進国と非先進国を分けようとすることには首をかしげてしまいます。

 少産少死では国家は発展しにくく、非人道的と思われるかもしれませんが、ある程度余分な人口が生まれ、適応できない部分が淘汰されないと社会は不健康になり、衰亡しかねません。
 生まれた子供が全部生き残れるのは感情としては望ましいのですが、環境に不適応であっても必ず生き残れるとすると、突然変異で出現しても自然に淘汰されてきた不適応な遺伝子が淘汰されなくなるのですから、不適応な遺伝子が増加しかねません。
 そうかといって、環境に不適応な遺伝子だからという理由で、人為的に淘汰しようとする優生学などは自然淘汰ではないので科学的にも支持されません。
 現在の人間が環境に不適応と判断した遺伝子が新しい環境ではより適応的である場合もあるからです。
 また、少産少死が先進国の徴といった主張は、発展しつつある途上国には迷惑の場合が多く、エネルギーの消費問題と同様、先進国のエゴと見なされかねません。
 また、皮肉なことに少産少死になった先進国の多くは自国民の人口減少に悩んでいます。
 人口の高齢化が進むのに、それを支える生産年齢人口が減少し、暗い未来が展望されているからです。
 大げさに言えば、世界が一律に少死少産を目指せば人類自体の危機をまねくことになります。
 
 どんな時代のどんな地域にも適用される原理のようなものはないのではないでしょうか。