ファクトフルネスの啓蒙(2)
** ファクトフルネスの啓蒙(2)
<世界とは何か>
インドにあった説話で、数人の盲人が象をなでて、それぞれ象はどんなものかを評した。
ある盲人は象の腹をなで象は壁のようだと評し、また別人は耳をなでて大きな団扇のようだと評し、また別人は鼻をなで、太い管、また別人は尻尾をなで太い縄のようだなどと様々に評し、それぞれが自分の意見が正しいと自己主張して言い争ったという。
一般的にはそれぞれが部分しか認識できなかったのに自分の見解の正しさを主張したことで、それぞれのけ判断の狭さを表した寓話だとされている。
盲人各人が行った評価は、実際に象をなでた実感によるものである。
実感というのは個人的なもので、人によって異なるし、またそれも時と場合により、さらに経験によって変化するから、判断も変化する。
経験がそれぞれ異なれば、判断も異なる。
各人の意見が異なることは当然で、これは盲人を軽蔑しているわけではない。
人によって異なる経験や判断は各個人が自分以外の経験判断があることを知ることをy可能にする。
自分の判断だけが唯一正しいと考えてしまうことになりがちになることから脱するよすがとなる。
「ファクトフルネス」でロスリングは(①世界は良くなりつつあるか、②悪くなりつつあるか、③どちらでもない)という3択問題を出し、正解の(良くなりつつある)を選択した人が少ないと嘆いている。
しかし第一に、世界とは何かが人によって異なるので当然、なにが正解かについても判断が異なる。
誰でも、お釈迦様ではないのだから、自分の知らない世界が世の中には山ほどあるということを認識しているのではないか。
子供のうちは家族や近隣が世界の全てだったり、大人になっても家族、知人、職場などがほとんどだったりする。
つまり自分の関心事についてしか評価しようとしない。
直接交渉のない世界についてはメディアや書物などによる間接的知識によるもので、実際どうなのかと問いつめられれば、あやふやである場合が多い。
世界は良くなっているのか、悪くなっているのかなどといった漠然とした質問については、普通の人間は答えようがない。
回答の選択肢に「わからない」というのがあればそれが圧倒的に多いのではないか。
多くの人は世界全体としてどうなのかといった問題を意識しながら生活しているわけではないので、そうした問いかけに答えられない。
ロスリングは、世界のすべての問題についてよくなっていると主張しているわけではなく、多くの重要問題についてデータをあげてファクトはよくなっているとしている。
しかし改善のもたらすものが手放しでよろこべるものかどうか。例えば寿命。
スィフトのガリバー旅行記では不死の国では死ねないことの結果のみじめさが述べられているから寿命が延びることの不安が語られている。
現代でも寿命の伸びは、さまざまの面で不安が語られもろ手を挙げて喜べず、社会の閉塞感をもたらしている。
徒然草の序盤で兼好法師は荀子から引いて、「命ながければ恥多し」として(誤用であるが)が四十ぐらいで死ぬのがほど良いなどと主張している。
小野小町は、「花の色は移りにけるにけるないたづらにわが身世にふるながめせしまに」と詠っている。
いづれにせよ長生きすることに肯定的ではない。
寿命が延びることが望ましいという感覚ではない。
世間全体の寿命が伸びれば、いわゆる勝ち組が世に憚り続け、負け組が永くみじめになりかねない。
世界が良くなっているということで、奇妙なことに、ロスリングはギターの普及率が上昇したという例を世界改善の例としてあげているがギターに関心のない人からすれば騒音が増えるだけである。
アダム・スミス以来、企業者は社会全体のために商品を製造するのではなく、自分の利得のために製造するが、市場において淘汰され全体としては経済はうまく回転するとされている。
多くの人は世界全体のことを考えて生活しているわけではないから、世界全体としてどうなっているかという質問に正しく答えられるわけではないのではないか。
それでもロスリングのような啓蒙主義者は世界は全体として良くなりつつあると力説する。
ヒトラーやスターリン、毛沢東のような独裁者も彼らの主観では世界全体をよくしようとして世界に災厄をもたらしたのではなかったか。
ロスリングは世界全体が良くなりつつあるのにそう思わない人が多いというが、世界が良くなりつつあるなら人々が世界は良くなりつつあるとおもっていなくてもそれでいいのではないか。
もしかして、世界全体は良くなりつつあると思わない人々が一定度いても、あるいは、世界は良くなっている思わないから改善努力をするので世界は全体として良くなっているのかもしれないではないか。
ファクトフルネスの啓蒙(3)
ファクトフルネスの啓蒙(3)
個人の経済レベルが向上するにつれ、少産少死が一般化するとロスリングは主張
しているが、精神医学の和田秀樹氏も少子化は歴史の必然であると言っている。
賢い女性は子供を少なく産んで丁寧に育てるからだそうだ。
アメリカにも知能レベルの高い女性は子供を少なく産むという学者がいたが、そうすると多産の女性は賢くないと見られてしまいかねない。
知能の高い人たちは、知能の高い少数の子供を産み育てるのが理想かもしれないが、
我々のような凡人からすればそういう社会は息苦しく感じるものではないでしょうか。
どこを向いても賢く大事に育てられた子供ばかりなんて。
かつて、女優のイザドラ、ダンカンがバーナード、ショーに「あなたの頭脳と私の肉体を受け継いだ子供ができれば素晴らしいでしょう」と言ったところショーは「もし私の貧弱な肉体とあなたの頭脳を受け継いだ子供ができたら悲劇だ」と答えたという。
たとえ両親が知的に優秀であっても、子供も優秀であるとは限らない例が、最近の韓国のチョ、グク夫妻による子供たちの不正入学事件。
夫妻ともに優秀な学者であって、有名な大学の教授なのに二人の子供は共に不正入学工作をせざるえなかった。
そのため、両親ともに検察から起訴され、家庭は崩壊してしまった。
個人の経済レベルが向上するにつれ少産少死が一般化すればその先はどうなるのか。
無死は無理としても、無子に進むのか。
もともと賢い女性よりも賢くない女性のほうが圧倒的に多いのに、少数派の賢い女性が子供を少ししか生まなければ、世の中は賢くない女性ばかりになるのではないか。
すでに少産少死が一般化している国々(日本や韓国を含む)は十分経済レベルが向上していない段階から少子化が進み、人口減少の危機に直面している、
貧困国などからの移民によって当面はしのいでいても、欧米先進国では
移民と移民受け入れ側との軋轢がすでに解決困難な状態になってきている。
世界は全体的に良くなって行きつつあると単純に喜べる状態ではないのではないか。
ものごとが良くなる一方とか、悪くなる一方とか直線的に変化すると思いこむのは原始時代からの本能によるとしながらも、世界はだんだん良くなりつつあるとロスリング自体も主張するがどういうことなのか。
ロスリングは世界はだんだん良くなっている例としてアスワンダムの開発によるエジプト、世界最貧国とされていたバングラディシュの最貧状態からの脱出を挙げている。
しかし、エジプトの例では、ナイル河によってエジプト文明が成立発展したものである。
それが過度の人口集中と河川の利用によって弊害が多出した。
アスワンダムの開発によって多くの問題が解決され、多くの住民に利益がもたらされた。
世界は良くなってきているとロスリングは絶賛するが、最近になって河の水をダムでせき止める弊害が顕著になっている。
もともとナイル河は上流から土砂も同時に運んできて、それが流域に恩恵をもたらしてきたのをダムがストップしたため多くの弊害が露わになりつつあるようである。
長期で見れば良くなったり、悪くなったりである。
一般人は本能によって直線的な思考に陥ってしまうとロスリングは言うが、ロスリング自体が直線的な一般人より直線的思考に陥っているのではないか。
、
バングラディシュの場合は、かつてはベンガルと言い、産業革命のころは綿織物で栄え、決してアジアの最貧国などではなかった。
イギリスが綿織物が有望とみて毛織物から綿織物に進出しようとしたとき、ベンガルの綿織物にはどうしても勝てなかった。
イギリスは紡織機の発明により飛躍的に安価な綿織物を大量生産を可能にしたが、当時の機械ではベンガルの綿織物の品質には到底及ばず、競争には勝てなかった。
そのときイギリスは品質向上により競争に勝とうとはせず、ベンガルの輸出を様々な手段で妨害し、果ては
ベンガル綿織物職人の腕を切り落として生産を不可能にしたという。
そのため栄えていたベンガルは最貧国と呼ばれるまでに転落した。
経済学では未だに各国が自国で最も生産性の高い分野に専念すれば全体として利益が高まるというリカードの比較生産性説が絶対の真理とされているが、イギリスのように暴力によって相手国の生産を妨害することは念頭になかったのか。
イギリスの例では産業革命当時アフリカから黒人を奴隷といて購入し南米諸国に売りさばいて巨額の利益を得たし、19世紀後半には植民地のインドで栽培した阿片を中国で売りさばき、中国(清朝)が販売を禁止すると戦争を仕掛け、香港を奪い取った。
また、アメリカの例では、日米の半導体交渉のの場合、さすがに直接暴力に訴えはしなかったがアメリカの政治的圧力によって、日本の半導体産業は発展を止められてしまった。
欧米の経済学では自由競争を力説するが、それは自国が優位の場合で、不利な場合は政治や暴力に訴える。
俗にいう殿様将棋の様なもので、自分はいくらでも「まった」をするが相手の家来に
には「まった」をさせない。
つまり相手にはルールを守らせるが、自国が不利になると自分はルール破りをして来たのである。
ファクトフルネスの啓蒙(3)
ファクトフルネスの啓蒙(3)
個人の経済レベルが向上するにつれ、少産少死が一般化するとロスリングは主張
しているが、精神医学の和田秀樹氏も少子化は歴史の必然であると言っている。
賢い女性は子供を少なく産んで丁寧に育てるからだそうだ。
アメリカにも知能レベルの高い女性は子供を少なく産むという学者がいたが、そうすると多産の女性は賢くないと見られてしまいかねない。
知能の高い人たちは、知能の高い少数の子供を産み育てるのが理想かもしれないが、
我々のような凡人からすればそういう社会は息苦しく感じるものではないでしょうか。
どこを向いても賢く大事に育てられた子供ばかりなんて。
かつて、女優のイザドラ、ダンカンがバーナード、ショーに「あなたの頭脳と私の肉体を受け継いだ子供ができれば素晴らしいでしょう」と言ったところショーは「もし私の貧弱な肉体とあなたの頭脳を受け継いだ子供ができたら悲劇だ」と答えたという。
たとえ両親が知的に優秀であっても、子供も優秀であるとは限らない例が、最近の韓国のチョ、グク夫妻による子供たちの不正入学事件。
夫妻ともに優秀な学者であって、有名な大学の教授なのに二人の子供は共に不正入学工作をせざるえなかった。
そのため、両親ともに検察から起訴され、家庭は崩壊してしまった。
個人の経済レベルが向上するにつれ少産少死が一般化すればその先はどうなるのか。
無死は無理としても、無子に進むのか。
もともと賢い女性よりも賢くない女性のほうが圧倒的に多いのに、少数派の賢い女性が子供を少ししか生まなければ、世の中は賢くない女性ばかりになるのではないか。
すでに少産少死が一般化している国々(日本や韓国を含む)は十分経済レベルが向上していない段階から少子化が進み、人口減少の危機に直面している、
貧困国などからの移民によって当面はしのいでいても、欧米先進国では
移民と移民受け入れ側との軋轢がすでに解決困難な状態になってきている。
世界は全体的に良くなって行きつつあると単純に喜べる状態ではないのではないか。
ものごとが良くなる一方とか、悪くなる一方とか直線的に変化すると思いこむのは原始時代からの本能によるとしながらも、世界はだんだん良くなりつつあるとロスリング自体も主張するがどういうことなのか。
ロスリングは世界はだんだん良くなっている例としてアスワンダムの開発によるエジプト、世界最貧国とされていたバングラディシュの最貧状態からの脱出を挙げている。
しかし、エジプトの例では、ナイル河によってエジプト文明が成立発展したものである。
それが過度の人口集中と河川の利用によって弊害が多出した。
アスワンダムの開発によって多くの問題が解決され、多くの住民に利益がもたらされた。
世界は良くなってきているとロスリングは絶賛するが、最近になって河の水をダムでせき止める弊害が顕著になっている。
もともとナイル河は上流から土砂も同時に運んできて、それが流域に恩恵をもたらしてきたのをダムがストップしたため多くの弊害が露わになりつつあるようである。
長期で見れば良くなったり、悪くなったりである。
一般人は本能によって直線的な思考に陥ってしまうとロスリングは言うが、ロスリング自体が直線的な一般人より直線的思考に陥っているのではないか。
、
バングラディシュの場合は、かつてはベンガルと言い、産業革命のころは綿織物で栄え、決してアジアの最貧国などではなかった。
イギリスが綿織物が有望とみて毛織物から綿織物に進出しようとしたとき、ベンガルの綿織物にはどうしても勝てなかった。
イギリスは紡織機の発明により飛躍的に安価な綿織物を大量生産を可能にしたが、当時の機械ではベンガルの綿織物の品質には到底及ばず、競争には勝てなかった。
そのときイギリスは品質向上により競争に勝とうとはせず、ベンガルの輸出を様々な手段で妨害し、果ては
ベンガル綿織物職人の腕を切り落として生産を不可能にしたという。
そのため栄えていたベンガルは最貧国と呼ばれるまでに転落した。
経済学では未だに各国が自国で最も生産性の高い分野に専念すれば全体として利益が高まるというリカードの比較生産性説が絶対の真理とされているが、イギリスのように暴力によって相手国の生産を妨害することは念頭になかったのか。
イギリスの例では産業革命当時アフリカから黒人を奴隷といて購入し南米諸国に売りさばいて巨額の利益を得たし、19世紀後半には植民地のインドで栽培した阿片を中国で売りさばき、中国(清朝)が販売を禁止すると戦争を仕掛け、香港を奪い取った。
また、アメリカの例では、日米の半導体交渉のの場合、さすがに直接暴力に訴えはしなかったがアメリカの政治的圧力によって、日本の半導体産業は発展を止められてしまった。
欧米の経済学では自由競争を力説するが、それは自国が優位の場合で、不利な場合は政治や暴力に訴える。
俗にいう殿様将棋の様なもので、自分はいくらでも「まった」をするが相手の家来に
には「まった」をさせない。
つまり相手にはルールを守らせるが、自国が不利になると自分はルール破りをして来たのである。
ファクトフルネスの啓蒙 (1)
「お父さん 目覚めてください!」
「目覚めてますよ わたしゃ! なに言ってんだ
もう!」
大人しかった息子が、宗教とか啓蒙思想に触れたりすると、世界というものを理解できたと感じ、一種の高揚感を持って親に説教まですることが有りました。
幼児期は家の者が何でも言うことを聞いてくれたので持っていた幼児期の万能感は、学校に行くようになれば、他人は思いどうりにならないので失われてしまいます。
宗教とか啓蒙思想に触れて、万能感がよみがえり、他人を説得したい衝動が生まれたりするのです。
ハンスロスリングの「ファクトフルネス」という本が娯楽本ではないのに、出版社発表で百万部を越える大ベストセラーとなっています。
ロスリングによれば世界の重要問題について、学者やジャーナリストなど大部分の知識人までが間違った判断をしているが、この本を読めば誰でも正しい判断ができるようになると言ってます。
ノーベル賞受賞者を含む一流の知識人、経営者などでも判断を誤る問題について正しく判断できるようになるというので、自己啓発本として魅力が強烈だったようです。
この本を読めば容易に知的なパワーが獲得できるように感じさせるからでしょうか。
ロスリングは世界について13の問題を提起し、それぞれ3種の回答の中から正解を選ばせています。
3択問題ですからでたらめに回答しても3分の1の確率で正解できるはずなのに、知識人などは20%程度の場合もある、つまりチンパンジーに回答を選ばせるより成績が悪いという結果だと言います。
なんでそんなことが起きるかと考えると、知識人などが記憶しているデータが古いので誤答が多くなってしまうのかとロスリングは最初は考えたそうです。
データというのは現実が変化すればそれに応じて変化すべきものですが、世界のあらゆることについて変化をその都度記憶し直すことは個々の人にはできません。
人間はいろんな事柄について新旧取り混ぜた知識をもって生活しています。
つまり知識をもとに判断すると正しい判断ができないこともあります。
ところがロスリングが新しい事実を示しても誤った解答をする人が多かったそうです。
そこでロスリングが考えついたのが、人間の本能が客観的事実を受け入れないため、事実に反する答えを選択してしまう理由だというアイデアです。
ロスリングの挙げた本能の筆頭が「何でも二つに分割される」ギャップインスティンクト(二分割本能)だとしています。
たとえば世界を貧困と富裕に分けてしまうという例。
しかし、かつて日本で自分が経済的にどの階層に属するかというアンケートでほとんどの人が中流に属すると答え一億総中流などと話題になったことがあります。
自分は貧困でも富裕でもないと考える人が大部分だったのです。
時代がずれても中間層が多数を占めるのは間違いないでしょう。
世の中が貧困層と富裕層に二分されると考える人は少ないのではないか。
全てのことについて二分化するというのは事実ではなく三分化も四分化もものによって有ります。
政治的には右翼、左翼だけでなく中道があり、山には頂上、中腹、すそ野、川には上流、中流、下流があります。
時間は過去、現在、未来、と思いつくだけでも二分化ではないものがいくつもあります。
なんでも二分化してしまうのが人間の本能だとは言えないのではないか。
日本人は本能を失っているということになるのでしょうか。
ロスリングは世界は貧富に二分化してはイナイという立場ですが、それを立証するのに、なぜか多産多子の社会が貧困社会、少産少子が富裕社会を示すとして
グラフ化しています。
かつては人類のほとんどが貧しく多産多死であったが、先進国がまず経済発展して少産少死化しており、その後、現在ではほとんどの国が少産少死化していて、その度合いが切れ目ないので、世界は全体的に改善されていると主張しています。
ところで、少産少死や多産多死が豊かさの指標だというのは、歴史的には正しくありません。
どの時代でも貧乏であったり低い身分の者は、家庭を持てなかったり少ない子供しか持てない傾向があり、権力者や富裕者が多くの子供を持ったものです。
正妻の子が少なくても一夫多妻だったり、婚外子を持ったりしていましたから富裕層が少産であったということはなく、多産が一般的でした。
大家族というのが後進的と思われたことがありますが、大家族が成り立つのは経済的基盤があってのことで、かつては大家族は地主、小作人は少家族が普通でした。
貧乏人の子沢山というのは、貧乏人が子供をたくさん作るというのではなく、貧乏なのに子供をたくさん産んでしまうと悲劇になるということです。
イギリスのマルサスが「人口論」で救貧院に反対していたのは、貧乏人で子供を養えない者に経済援助をすれば、子供を持つことを可能にしてしまう。
そうすると社会の食料生産量を越える人口をもたらすからだとしています。
富裕者は子供を多く持てるが、貧者は政府の援助がなければ子供を多く持てないと考えていたのです。
産業革命後ヨーロッパの人口は増えましたが、特に増加率の高かったのがイギリスで、急増する人口によって世界中に植民地を築いています。
増加する人口のはけ口が植民地だったわけですが、人口増加が先進国の地位獲得の要因でもありました。
少産少死が先進国の証しというのはいつもどこでも言えることではないのです。
産業革命後のヨーロッパ諸国は人口が増加し、また植民地を獲得し、収奪することで著しく経済発展を遂げていますから、少産少死と多産多死で先進国と非先進国を分けようとすることには首をかしげてしまいます。
少産少死では国家は発展しにくく、非人道的と思われるかもしれませんが、ある程度余分な人口が生まれ、適応できない部分が淘汰されないと社会は不健康になり、衰亡しかねません。
生まれた子供が全部生き残れるのは感情としては望ましいのですが、環境に不適応であっても必ず生き残れるとすると、突然変異で出現しても自然に淘汰されてきた不適応な遺伝子が淘汰されなくなるのですから、不適応な遺伝子が増加しかねません。
そうかといって、環境に不適応な遺伝子だからという理由で、人為的に淘汰しようとする優生学などは自然淘汰ではないので科学的にも支持されません。
現在の人間が環境に不適応と判断した遺伝子が新しい環境ではより適応的である場合もあるからです。
また、少産少死が先進国の徴といった主張は、発展しつつある途上国には迷惑の場合が多く、エネルギーの消費問題と同様、先進国のエゴと見なされかねません。
また、皮肉なことに少産少死になった先進国の多くは自国民の人口減少に悩んでいます。
人口の高齢化が進むのに、それを支える生産年齢人口が減少し、暗い未来が展望されているからです。
大げさに言えば、世界が一律に少死少産を目指せば人類自体の危機をまねくことになります。
どんな時代のどんな地域にも適用される原理のようなものはないのではないでしょうか。
■
地球平面説
八公 「あれは取ったんでなく貰ったんです。吉田の旦那も世の中のことは何でも知ってると言うから、日本から西へずーっと行くと何処へ行きますかと聞いたんです。日本の西にあるのは長崎、その先はと聞くと、その先は海、またその先は西洋、その先は海、海の先は行けども行けども海、行けども行けども海のその先は..その先は、その先は、・・・・・と二時間くらいやったら旦那は喘息が出て、息が上がって、”お前には敵わない、一円やるから帰っておくれ”と言ったから貰ったんです」
吉田の旦那は大地は平面であると考えていたので、その先は、その先はと問いつめられて詰まってしまったが、コロンブスのように大地は球状であると考えていたなら、その先は、その先はと問われても、またもとの場所に戻ってくると答えて問答を打ち止めにすることができた。
八公も吉田の旦那も大地が平面だと思っていたから、西へ西へと行ったらと、際限なく問答ができたが
最近ではこの話は地球から宇宙を飛行機でどんどんゆくとどうなるという話に変えられている。
大地の場合は陸や海があってもそれぞれ境界があるからその先がどうなっているかと問いが出せる。
宇宙となると方向性や際限が想像しにくいけれども、飛行機では地球からどんどん離れることはできないし、落語としては面白味がなくなりこの話は普及しなかったようである。
現代では大地と言う言葉に替わって地球という言葉が使われるように、我々が住んでいるところは球状であるというのが常識となっている。
と文明社会では当然そうだと思っていたら、現在でもアメリカなどには地球平面説(形容矛盾みたいだが)を唱える人々がいるという。
三井誠「人は科学が苦手」によると、アメリカには「フラットアース国際会議」と呼ばれる、「地球が平ら」だと考える人たちの集まりがあるという。
この集まりに参加する人々は、「水平線や地平線はどこで見ても平らだ」という実感に基づいて主張するだけでなく、さまざまな視点から証拠をあげているという。
YOU TUBEなどで宣伝したり、中には自分でロケットを制作し、そのロケットに乗って飛び上がり、実際に目で地球が平らであることを確かめようとした人もいた(飛び上がったのが500メートル程度の高さだったので、高さ不足で確かめられなかったとか)。
実感としては大地は球面ではなく平面であると思うのは普通であろう。
学校や親などから地球は丸いと教えられたからといってそれを鵜呑みにせず、自分で実際に確かめようとするのだから、彼らは非科学的な人々だとは言えない。
しかし、ロケットを自作して打ち上げて観察するところまでやるというのはいかにもアメリカらしくスケールが大きいがエキセントリックでもある。
■
天動説と地動説
「わしゃ ずっと天動説や。天動説でちっとも困らん。」
「こっちがじっとっしてるにに、朝になっておてんとうさまが出てくる。
むこうが勝手に動いてるのやによってな。」
昭和の怪僧と呼ばれた薬師寺管主の橋本凝胤が徳川無声との対談で述べたもの。
多くの人は地動説だという意見に対しては
「そう教えられたからそれに違いないと思って、、」
と反論している。
太陽が朝出てきて夕方に沈むというのは実感であろうから、「実感を大切にすれば天動説になる」というのも説得力がある。
人類が誕生してから何十万年もの間大分部分の人は天動説であり、それで困ることはなかったのだから、「天動説でちっとも困らん」という人がいても不思議はない。
地動説を信じている人は「そう教えられたから、それにちがいないと思って」いると言われれば、ほとんどの人は明確な反論はできないであろう。
多くの人は信じているからといっても理解しているとは限らない。
ところで、一日に昼と夜が交替することから
天動説を信じている人は太陽が地球の周りを廻っていると考えている、つまり一日で公転していると考えていることになるが、地動説は一日で地球が太陽の周りを廻るとはしていない。
地動説は地球が一日で自転し、一年365日かけ太陽の周りを廻って公転していると考える。つまり地動説は昼と夜の交替は地球の自転によると考えている。
太陽が地球の周りを廻らなくても、地球が自転すれば「朝に太陽が東から昇り、夕方西に沈む」と実感できるのである。
天動説では、地球と太陽の位置関係が逆になるから、太陽が1日でつまり地球の自転速度の365倍のスピードで地球の周りを廻るということになるので、逆に素直に受け入れにくいのではないか(太陽が365日で地球の周りを廻っても、地球が1日で1回自転すれば1日で昼夜が交代するが、これでは別種の地動説になってしまう)。
それでも地球自体が動いているということは容易に信じられないから、天動説に与するかもしれない。
電車に乗っているとき、ホームの反対側の列車が動き出した、と思ったら反対側の列車とホームの柱が一緒に動いているので、動き出したのは自分が乗っている電車だと気が付いた。
というような経験があるのではないだろうか。
新幹線やジェット旅客機に乗っているとき,定速状態の時は高速で動いているのに、静止しているように感じる。
自分が動いているのに、周囲が動いているように感じ場合があるのである。
月夜の晩に上空の月を見ながら歩いていると月が歩行に合わせて移動しているように見える。
立ち止まった状態で月を見ると月は停止して見えるが、月までの距離が非常に大きいため月を見ながら歩いても視線が動かないので、月が歩行に連れて移動しているように感じる。
実感として月が歩行の方向に動いているように感じる。
「三笠の山にいでし月かも」、「雲隠れし夜半の月かな」などというのも実感に違いないが、月は三笠の山からも、雲からも測りしれぬほど離れているので、事実ではない。
月までの距離は見る目から三笠の山や雲までの距離の何万倍も離れているので、実感は事実を反映していない。
三笠の山に向かって歩けば、三笠の山はだんだん大きく見えるようになるが月はそのままの大きさで、三笠の山に隠れてしまう。
実感というのは実際にそのように感じたということで、事実が実感のとおりであるとは限らないのである。