ファクトフルネスの啓蒙(2)
** ファクトフルネスの啓蒙(2)
<世界とは何か>
インドにあった説話で、数人の盲人が象をなでて、それぞれ象はどんなものかを評した。
ある盲人は象の腹をなで象は壁のようだと評し、また別人は耳をなでて大きな団扇のようだと評し、また別人は鼻をなで、太い管、また別人は尻尾をなで太い縄のようだなどと様々に評し、それぞれが自分の意見が正しいと自己主張して言い争ったという。
一般的にはそれぞれが部分しか認識できなかったのに自分の見解の正しさを主張したことで、それぞれのけ判断の狭さを表した寓話だとされている。
盲人各人が行った評価は、実際に象をなでた実感によるものである。
実感というのは個人的なもので、人によって異なるし、またそれも時と場合により、さらに経験によって変化するから、判断も変化する。
経験がそれぞれ異なれば、判断も異なる。
各人の意見が異なることは当然で、これは盲人を軽蔑しているわけではない。
人によって異なる経験や判断は各個人が自分以外の経験判断があることを知ることをy可能にする。
自分の判断だけが唯一正しいと考えてしまうことになりがちになることから脱するよすがとなる。
「ファクトフルネス」でロスリングは(①世界は良くなりつつあるか、②悪くなりつつあるか、③どちらでもない)という3択問題を出し、正解の(良くなりつつある)を選択した人が少ないと嘆いている。
しかし第一に、世界とは何かが人によって異なるので当然、なにが正解かについても判断が異なる。
誰でも、お釈迦様ではないのだから、自分の知らない世界が世の中には山ほどあるということを認識しているのではないか。
子供のうちは家族や近隣が世界の全てだったり、大人になっても家族、知人、職場などがほとんどだったりする。
つまり自分の関心事についてしか評価しようとしない。
直接交渉のない世界についてはメディアや書物などによる間接的知識によるもので、実際どうなのかと問いつめられれば、あやふやである場合が多い。
世界は良くなっているのか、悪くなっているのかなどといった漠然とした質問については、普通の人間は答えようがない。
回答の選択肢に「わからない」というのがあればそれが圧倒的に多いのではないか。
多くの人は世界全体としてどうなのかといった問題を意識しながら生活しているわけではないので、そうした問いかけに答えられない。
ロスリングは、世界のすべての問題についてよくなっていると主張しているわけではなく、多くの重要問題についてデータをあげてファクトはよくなっているとしている。
しかし改善のもたらすものが手放しでよろこべるものかどうか。例えば寿命。
スィフトのガリバー旅行記では不死の国では死ねないことの結果のみじめさが述べられているから寿命が延びることの不安が語られている。
現代でも寿命の伸びは、さまざまの面で不安が語られもろ手を挙げて喜べず、社会の閉塞感をもたらしている。
徒然草の序盤で兼好法師は荀子から引いて、「命ながければ恥多し」として(誤用であるが)が四十ぐらいで死ぬのがほど良いなどと主張している。
小野小町は、「花の色は移りにけるにけるないたづらにわが身世にふるながめせしまに」と詠っている。
いづれにせよ長生きすることに肯定的ではない。
寿命が延びることが望ましいという感覚ではない。
世間全体の寿命が伸びれば、いわゆる勝ち組が世に憚り続け、負け組が永くみじめになりかねない。
世界が良くなっているということで、奇妙なことに、ロスリングはギターの普及率が上昇したという例を世界改善の例としてあげているがギターに関心のない人からすれば騒音が増えるだけである。
アダム・スミス以来、企業者は社会全体のために商品を製造するのではなく、自分の利得のために製造するが、市場において淘汰され全体としては経済はうまく回転するとされている。
多くの人は世界全体のことを考えて生活しているわけではないから、世界全体としてどうなっているかという質問に正しく答えられるわけではないのではないか。
それでもロスリングのような啓蒙主義者は世界は全体として良くなりつつあると力説する。
ヒトラーやスターリン、毛沢東のような独裁者も彼らの主観では世界全体をよくしようとして世界に災厄をもたらしたのではなかったか。
ロスリングは世界全体が良くなりつつあるのにそう思わない人が多いというが、世界が良くなりつつあるなら人々が世界は良くなりつつあるとおもっていなくてもそれでいいのではないか。
もしかして、世界全体は良くなりつつあると思わない人々が一定度いても、あるいは、世界は良くなっている思わないから改善努力をするので世界は全体として良くなっているのかもしれないではないか。