ファクトフルネスの啓蒙(3)

  ファクトフルネスの啓蒙(3)

 個人の経済レベルが向上するにつれ、少産少死が一般化するとロスリングは主張
しているが、精神医学の和田秀樹氏も少子化は歴史の必然であると言っている。
 賢い女性は子供を少なく産んで丁寧に育てるからだそうだ。
 アメリカにも知能レベルの高い女性は子供を少なく産むという学者がいたが、そうすると多産の女性は賢くないと見られてしまいかねない。
 知能の高い人たちは、知能の高い少数の子供を産み育てるのが理想かもしれないが、
我々のような凡人からすればそういう社会は息苦しく感じるものではないでしょうか。
 どこを向いても賢く大事に育てられた子供ばかりなんて。
 かつて、女優のイザドラ、ダンカンがバーナード、ショーに「あなたの頭脳と私の肉体を受け継いだ子供ができれば素晴らしいでしょう」と言ったところショーは「もし私の貧弱な肉体とあなたの頭脳を受け継いだ子供ができたら悲劇だ」と答えたという。
 たとえ両親が知的に優秀であっても、子供も優秀であるとは限らない例が、最近の韓国のチョ、グク夫妻による子供たちの不正入学事件。
 夫妻ともに優秀な学者であって、有名な大学の教授なのに二人の子供は共に不正入学工作をせざるえなかった。
 そのため、両親ともに検察から起訴され、家庭は崩壊してしまった。

 個人の経済レベルが向上するにつれ少産少死が一般化すればその先はどうなるのか。
 無死は無理としても、無子に進むのか。
  もともと賢い女性よりも賢くない女性のほうが圧倒的に多いのに、少数派の賢い女性が子供を少ししか生まなければ、世の中は賢くない女性ばかりになるのではないか。
 
 すでに少産少死が一般化している国々(日本や韓国を含む)は十分経済レベルが向上していない段階から少子化が進み、人口減少の危機に直面している、
 貧困国などからの移民によって当面はしのいでいても、欧米先進国では

移民と移民受け入れ側との軋轢がすでに解決困難な状態になってきている。
 世界は全体的に良くなって行きつつあると単純に喜べる状態ではないのではないか。

 ものごとが良くなる一方とか、悪くなる一方とか直線的に変化すると思いこむのは原始時代からの本能によるとしながらも、世界はだんだん良くなりつつあるとロスリング自体も主張するがどういうことなのか。

 ロスリングは世界はだんだん良くなっている例としてアスワンダムの開発によるエジプト、世界最貧国とされていたバングラディシュの最貧状態からの脱出を挙げている。

 しかし、エジプトの例では、ナイル河によってエジプト文明が成立発展したものである。
  それが過度の人口集中と河川の利用によって弊害が多出した。
 アスワンダムの開発によって多くの問題が解決され、多くの住民に利益がもたらされた。
 世界は良くなってきているとロスリングは絶賛するが、最近になって河の水をダムでせき止める弊害が顕著になっている。
 もともとナイル河は上流から土砂も同時に運んできて、それが流域に恩恵をもたらしてきたのをダムがストップしたため多くの弊害が露わになりつつあるようである。
 長期で見れば良くなったり、悪くなったりである。

 一般人は本能によって直線的な思考に陥ってしまうとロスリングは言うが、ロスリング自体が直線的な一般人より直線的思考に陥っているのではないか。

 バングラディシュの場合は、かつてはベンガルと言い、産業革命のころは綿織物で栄え、決してアジアの最貧国などではなかった。
 イギリスが綿織物が有望とみて毛織物から綿織物に進出しようとしたとき、ベンガルの綿織物にはどうしても勝てなかった。
 イギリスは紡織機の発明により飛躍的に安価な綿織物を大量生産を可能にしたが、当時の機械ではベンガルの綿織物の品質には到底及ばず、競争には勝てなかった。
 そのときイギリスは品質向上により競争に勝とうとはせず、ベンガルの輸出を様々な手段で妨害し、果ては
ベンガル綿織物職人の腕を切り落として生産を不可能にしたという。
 そのため栄えていたベンガルは最貧国と呼ばれるまでに転落した。
 経済学では未だに各国が自国で最も生産性の高い分野に専念すれば全体として利益が高まるというリカードの比較生産性説が絶対の真理とされているが、イギリスのように暴力によって相手国の生産を妨害することは念頭になかったのか。
 イギリスの例では産業革命当時アフリカから黒人を奴隷といて購入し南米諸国に売りさばいて巨額の利益を得たし、19世紀後半には植民地のインドで栽培した阿片を中国で売りさばき、中国(清朝)が販売を禁止すると戦争を仕掛け、香港を奪い取った。
 また、アメリカの例では、日米の半導体交渉のの場合、さすがに直接暴力に訴えはしなかったがアメリカの政治的圧力によって、日本の半導体産業は発展を止められてしまった。
 欧米の経済学では自由競争を力説するが、それは自国が優位の場合で、不利な場合は政治や暴力に訴える。
 俗にいう殿様将棋の様なもので、自分はいくらでも「まった」をするが相手の家来に
には「まった」をさせない。
 つまり相手にはルールを守らせるが、自国が不利になると自分はルール破りをして来たのである。